物語7 Mare の 一歩 (2)
私は、私に気づいてからも、
動くことはできませんでした。
体は 砂が詰まったように重く、
向きを変えるのがやっとでした。
木の上からずっと
空や子どもたちを見て過ごしました。
子どもたちから
たくさんの幸せをもらいました。
気がつけば、悲しい気持ちは
消えていました。
あなたが6歳になって
他の子どもたちと一緒に卒園する日、
私は涙が止りませんでした。
私の涙は空に溶けて虹になりました。
子どもたちが私の涙の虹を
見つけてくれました。
私の思いが、大好きな子どもたちを
笑顔にしたことが嬉しくてまた涙が出ました。
しばらくするとまた
小さな子どもたちが入園してきました。
卒園した子どもたちも、
時々戻ってきてくれました。
あなたもそうでした。
でも、あなたが戻ってくるのが
なぜ週に1度なのか、
何をしに戻ってくるのか、
木の上から見ているだけの私には
わかりませんでした。
あなたはピアノを教わりに
ここへ戻ってきていたのですね。
ピアノの音と一緒に
あなたの歌う声が聞こえました。
私は あなたが幼稚園に戻ってくる
週に1度の日がますます楽しみになりました。
耳を澄まして、あなたのピアノと
歌声を聴くようになりました。
2月の半ばごろ、
あなたがまたやってきた時、
あなたの胸に小さな光がありました。
あなたを包むやわらかな光とは違う、
もっと明るい白い光でした。
なぜだか気になって、
気になって、よく見ると
それは鍵穴でした。
私の右手が何かに触れました。
触ったものは、
密に編まれた毛糸の小さな かばんでした。
私は、私を 一度も見せことが
ないことに気がつきました。
私は日がのぼる前の 空の色でした。
肌と背中の羽は少し薄い
服はそれよりも濃い群青色。
毛糸のかばんは、西の空の、
夜の色でした。
かばんをそっと開けると、
にぶい金色の不思譴な形の
小さな鍵がひとつ入っていました。
「開けなくては!」鍵を手にすると、
そう思いました。
私はあなたの胸にある、
心の鍵を開けなくてはならないのだと。
私は枝をつたい、ゆっくり木をおりました。
動くたびに 体中が痛みました。
羽はあっても、 背中に難くこわばっていて
飛ぶことはできませんでした。
あなたがお母さんと幼稚園の扉を出る
間際、追いつくことができました。
あなたのかかとにしがみつき、
駅に着くころ、やっと
肩まで登ることが出来ました。
電車に並んで座る あなたとお母さんの
おしゃべりを 楽しく聞きました。
お母さんが話を途中でやめたので、
私は あなたの肩からお母さん見上げました。
お母さんと私の目が合いました。
私がちょっと笑うと、
お母さんはにっこり微笑みました。
お母さんはきっと
たくさんの妖精を見たことがあるのでしょう。
そんな気がしました。
それから何日もあなたと一緒に過ごしました。
楽しい時間でした。
あなたが水色のドレスを着て 舞台に上がり
ピアノを弾きながら歌うのも
見ることができました。
のびのびとして 可愛らしくて
本当に 妖精の女の子ようでした。
そしてその夜、あなたはいつもより
ぐっすりと深く眠りました。
私は、あなたの鍵を開けるのは
今だと思いました。
人の胸には時計の文字盤のように、
鍵穴のある小さなドアが、
12個 丸く並んでいます。
あなたの胸の、時計で言えば12時のドアは
もう開いていました。
お母さんやお父さんの
心からの愛で開くドア。
薄桃色の「愛」のドアでした。
今、白く光っている鍵穴のドアは
1時の場所。
私はかばんから鍵を取り出して
差込み、ゆっくり回しました。
カチリと小さな音がして、ドアが開きました。
小さなドアから 白い光があふれました。
「信頼」のドアでした。
自分を信じ、人を信じ、
まだ見ぬものを信じられる ドアです。
あとの10のドアは何でしょう。
試しても、私の鍵では開きませんでした。
人はきっと生きていく時間の中で、
いろいろな経験をして、
いろいろなことを感じていくことで、
ひとつずつ 心の鍵が開き、
ドアが開いてゆくのでしょう。
それから私は、子どもにも大人にも、
いろいろな人の胸に、白く光る鍵穴を見ました。
私の仕事は「信頼のドア」を
開けることだったのです。
きっとそれは、生まれてからずっと
私の仕事だったのだろうと思います。
鍵は 私のたったひとつの荷物なのですから。
そう思えた時から、水が湧き出るように、
心の底から力が湧いてきました。
私がここにいるということが
私が 私だということが 幸せで
喜びが溢れ 胸が苦しいほどでした。
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