死の哲学 佐伯啓思


家族に介護上の面倒をかけたくない。


病院で不本意な延命治療や、

施設で介護など受けたくない。

もし、それを避けるなら、

自宅で家族の介護に頼るほかない。


高度の医療技術や

延命治療が発達したこの社会で、

人はいかに死ねばよいのか。


死という自分の人生を締めくくる

最大の課題に対して

どのような答えを出せばよいのか。


今日、われわれは

実に深刻な形でこの問の前に

放り出されている。


簡単な事実をいえば、

日本は超高齢社会に

入ってしまっている。

2025年には

65歳以上の割合は

人口の30%に達するとされる。

介護施設の収容能力を、

はるかに超えた老人が出現する。

また、現在、50歳で独身という

生涯未婚率は、男で23%、

女で14%となっている。

少子化の現状を考慮すれば、

一人で死なねばならない

老人の割合は

今後も増加することになろう。

おまけに医療技術や

新たな医薬品の開発によって

寿命はますます延びる。


政府は人生100歳社会の到来を唱え、

医療の進歩と寿命の延長は、

無条件で歓迎されるべきこととされる。

しかしそうだろうか。

それはまた別の面からいえば、

年老いて体は弱っても

容易には死ねない社会の到来

でもあるだろう。

ということは、

長寿社会とは、

家族の負担も含めて長い老齢期を

どうすごすか、という問題であり、

その極限に、

家族もなく看取るものもない孤独死、

独居死という事実が待ち構えている、

ということでもあろう。

超高齢化社会とは、

人の死に方という普遍的なテーマの方に、

われわれの関心を

改めて振り向ける社会なのである。


近代社会は、生命尊重、自由の権利、

個人の幸福追求を

基本的な価値としてきた。

それを実現するものは

経済成長、人権保障、

技術革新だとされてきた。

しかし、今日、われわれは、

もはやこれらが何ら

解決ももたらさない時代へと

向かっている。


近代社会が排除し、

見ないことにしてきた「死」

というテーマにわれわれは

向きあわざるを得なくなっている。


いくら思考から排除しようとしても、

また、いくら美化しようとしても、

老・病・死という現実は、

とてもきれいごとで片付くものではない。


仏教の創始者にとって

人間の最大の苦とされた

老・病・死の問題は、

それが、決して他人には代替不能な

個人的な事態であるにもかかわらず、

個人ではどうにもならないのだ。


自宅にいて家族に看取ってもらうのが

一番などといって、

政府もこの方向を模索しているが、

実際にはそれは容易なことではない。

また、家族にも事情があり、

その家族もいない者は

どうすればよいのか、

ということにもなる。

やむをえず入院すると、

そこでは延命治療が施される。


近代社会が、

生命尊重や個人の自由、

幸福追求を強く唱えたのは、

ただ生きていればよいからではなく、

個人の充実した生の活動を

かけがえのないものと考えたからである。

だから、その条件として

生命尊重や自由の権利などに

重要な意味が与えられたのだ。


しかし、人は年老い、活力を失い、

病に伏し、死に接近してゆく。

これが厳然たる現実である。

いくら「充実した生の活動」といっても、

その生がかげり、

活動が意のままにならない時がくる。


かつて、この「老い、活力を失い、

病に伏し、死に接近する」苦にこそ

人生の実相をみたのは仏教であった。

自由の無限の拡大や

幸福追求をむしろ苦の原因として、

この苦からの解脱を説いた。

それは、今日の近代社会の

われわれの価値観とは

まったく違うものである。

ただ仏教が述べたのは、

生は死の準備であり、

常に死を意識した生を

送るべきだということである。

死の側から生を見たということである。

別に仏教が死に方を

教示してくれるわけでもないし、

仏教の復興を

訴えようとしているのではない。


「死」は、あくまで個人的な

問題なのである。

「死の一般論」などというものはない。

自分なりの「死の哲学」を

模索するほかない。


佐伯啓思 京都大学名誉教授

2018.2.2 朝日新聞


青空通信

双子の子育てや離婚、自分の成長、 他の方々から頂いた言葉、 出会った言葉を綴っています。

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