物語5 「家」あとがき
2006年5月。
妖精から一通目の手紙を
受け取るとすぐに、
海は、
ピアノの成り立ちの絵本を
本棚から出してきて、
テーブルに広げ、
毎日一ページずつ、
妖精のためにページをめくった。
ふたりは、下の乳歯が抜けたあとに
2本永久歯が生え、
それからしばらくは、
どちらも歯が抜けることはなく、
それでも
ときどきサリーナの話をした。
初秋、二通目の手紙に
書きたいことが浮かんできた。
世間では、子どもたちのいじめや
自殺の事件が相次いでいた。
ふしぎにも与えられている
「いのち」のこと、
「今」を生きることを書きたかった。
そして、
妖精を家に住まわせてみよう
とも思った。
人間とは別のいのち、
自分たちの生活と平行にある
妖精の今を思いながら、
感じながらの毎日は
どんなものだろう…。
12月。
ドールハウス用のミニチュアの
ベッドとイスを
インターネットで注文し、
サンタクロースからサリーナへの
クリスマスプレゼントとして、
カードを添え、
子どもたち宛ての品物とともに
並べた。
お願いしていたサッカーボールや、
キーパーグローブに大騒ぎしたあと、
小さなベッドとイスをみつけ、
「なんだろう?」
カードを手にとって
「Dear little Salina. って書いてあるよ」
というと、
「サリーナのプレゼントだー!」
なにかサンタさんには
思いがあるにちがいない、
ピアノの上を片付けて
サリーナの部屋に整えた。
その夜、陸はサリーナへ、
プレゼントが届いたことを
手紙に書き 枕の横へ置いた。
1月から2月下旬、
サリーナの手紙は下書きのまま、
私は、この10年間に書き溜めた
言葉や思ってきたことを、
とり憑かれような様相で
文章にしていた。
家事も手抜き、
運動もほとんどせず、
外にも出ずパソコンに向かった。
何事かの用事で人と会うと、
うまく言葉がでてこなかった。
元来、私はものぐさであるのだが、
ときどき雷に打たれたようになり、
文章やものを
つくらなければいられなくなる。
パソコンに向かっていない時も、
常に言葉が頭を流れ、
ゆらゆらと言葉の海を
泳いでいるようだった。
そして、
ふとしたことから憑物が落ち、
まだ書きたいことはいろいろあるのに、
頭を流れる言葉が消えた。
気がつけば3月。
クリスマスはもう過去になった。
サリーナの手紙を書かなければ…
2007年3月12日。
ずいぶん前から
グラグラしていた陸の下の歯と、
海の上の前歯2本を歯医者で抜いた。
陸は上下1本ずつななめの歯抜け、
海は上の前歯2本の歯抜け。
前歯の抜けた子どもの笑顔は、
可愛くておかしくて、
こちらも笑ってしまう。
久しぶりに歯が抜けたので、
久しぶりに妖精から
コインが貰えることが、
ふたりとも嬉しいようで、
夜、サリーナが取りやすいようにと、
枕のよこに入念に位置を決める。
夜中の1時半、
一通目と同じ和紙で同じような
細長い手紙ができあがった。
いまやサリーナの家でもある
ピアノの上に、手紙とコイン、
サリーナからのおすそわけの
きれいな青い石と並べて置いた。
朝、枕をもちあげても歯もコインもない。
「がっかりだなぁ」と海。
「そうだ!ピアノのうえかも」と陸。
起きだして見ると、
ピアノの上にはコインと
思いがけない石と手紙もあり、
大興奮。
朝食をとりながら私が手紙を読んだ。
日付を2月11日にしておいた。
「一ヶ月もこの手紙ピアノの上に
あったみたいだよ」と私。
「えー、気がつかなかったー」とふたり。
「気がついてほしかったから、
枕の下じゃなくて、
ピアノの上にコインを
置いたんじゃない?」と私。
「そうだね」と納得するふたり。
クリスマスから経ってしまった時間を
こっそりと巻き戻した。
いくつかの大きな仕事を終えた。
久しぶりに本を持って
長く湯船に浸かりたくなった。
文章を書いているときは、
本は全く読めないし、
お風呂も長く入っていられない。
本棚をながめていたら、
いわさきちひろの
「ちひろのことば」という
20年以上は前に買った
薄い文庫本が目にとまった。
いわさきちひろの絵は好きだ。
が、その本を読み返したことも
久しくなく、何が書かれていたかは
全く覚えていなかった。
ちひろの絵はとてもいい。
もともとは子ども好きではなかった私が、
なぜ20年以上前からちひろの絵が
好きだったのかわからないが、
子育てを経験している今、
なおさらに子どもの表情の
ひとつひとつが心に迫ってくる。
ちひろの描く子どもの顔は、
飾りのない日本の子どもの顔だ。
どの子にも心当たりがあり、
愛しくおもう。
その本のなかに「大人になること」
という一節があった。
若かったころ、
たのしく遊んでいながら、
ふと空しさが風のように
心をよぎっていくことがありました。
親からちゃんと愛されているのに、
親たちの小さな欠点が見えて
ゆるせなかったこともありました。
いま私はちょうど逆の立場になって、
私の若いときによく似た
欠点だらけの息子を愛し、
めんどうな夫がたいせつで、
半身不随の病気の母に
できるだけのことをしたいのです。
これはきっと私が
自分の力でこの世をわたっていく
大人になったせいだと思うのです。
大人というものは
どんなに苦労が多くても、
自分の方から人を愛していける
人間になることなんだと思います。
今までに、
何度も同じようなことがあった。
思っていることと同じ言葉、
必要なときに、
必要な言葉がやってくる。
本からだったり、
新聞からだったり、
時には書店で買った
本の紙カバーに印刷された
一言だったりもした。
私は40歳になり、
精神的にやっと
大人になれたと思っていた。
そんな区切りもあって、
思ってきたことをまとめていたのだ。
「大人というのは
どんなに苦労が多くても、
自分の方から人を愛していける
人間になることなんだと
思います。」
日常の雑多なものごとが
繰り返される毎日に、
無事のありがたさや、
今、生きている体や、
思うこころのある不思議さを
忘れてしまいそうになる。
今日があることを感謝しつつ、
与えることのできる
大人でありたいと願う。
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