物語11 Salina Carter の 鍵(2)

次の朝、また水の玉に

会えるかもしれないと思い、

勇気を出して、

さんばしのいちばん先に

つないであるボートの

へさきにすわりました。


かわらず波はおだやかでしたが、

魚が近くではねて、

飛び上るほどおどろいたり、

おそるおそる水中をのぞいて、

落ちたらどうしよう、

浮かんでこれなかったらどうしよう、

と心配したりしながら待っていました。


あんまりこわくて、

もうもどろうかと思いはじめたころ、

水の玉がぴょこんと出てきました。


こちらに水の手をさし出しています。

水面から出ている頭も手も、

水と同じようにとうめいで、

やわらかいゼリーのように、

ふるふると表面が波立っています。


「おいでよ!」と声がコツンと

胸にひびきました。

泳いだことはないし、

ようせいが水の中で

息ができるのかどうか知らないので、

こわくなって手足を縮めて

あとずさりしました。


「だいじょうぶだよ!」の声と同時に、

海が水の玉といっしょに

かたまりで伸びてきて

わたしをのみこみ、水ごしに

見える景色がぐるりと回ったと思ったら、

わたしは海の中にいました。


あわててもがくわたしの両手が

ぎゅっとつかまれました。

目の前に水の玉の頭がありました。

「苦しくないだろう?」

頭に声が入ってきました。

息はしていないのに息苦しさはなく、

体の中をすずしい風が

吹いているようでした。


「手をつないでいればだいじょうぶ!」

ほっとすると水の玉を

よく見ることができました。

水の玉とわたしはほとんど同じ大きさと

形ですが、足の指はつながりひれのように

長く伸びていました。


群れ泳ぐ魚たちがうずを巻いていました。

大きな魚が勢いよく横を通りすぎました。

海底は深い砂地で少し暗く、

崩れた船がかたむいていました。

また体がふるえはじめました。

水の玉はすぐにわたしの気持ちに

気がついて「さあいこう!」と

水をけりました。


水の玉が体と足を

ゆっくりとうねらせると、

ぐんぐんと進みます。

すぐに砂地は浅くなり、

まわりは光でいっぱいになりました。

わたしの知っている光の精は

いつもにぎやかでおしゃべり好きでしたが、

海の中ではゆったりと

ゆうがにくつろいでいました。


光の精たちは波にゆれながら、

砂の上に光の模様を描きます。

水面を見上げるとお日様は

ゆらゆらと広がり、光の精が

何本もすじになって降りてきます。

初めて見る光景に水の中にいることも

忘れて見とれていました。

体のふるえも止まり、

わたしもゆったりとした気分になりました。


ふと横を見ると水の玉が首をかしげ、

こちらを見ています。

「気に入った?」

水の中でどうやって言葉を

返していいのかわからないけれど、

何度もうなずきながら

「とってもすてき!ありがとう!」

とくり返し伝えようとしました。

「思うだけでいいんだよ」

「気に入ってくれてうれしいよ」

思えば伝わるのだそうです。


心が静まるといろいろな音がわかりました。

手をつないでいる水の玉の言葉は、

そのまま頭に入ってきます。

光の精たちの静かな歌声は、

体にしみこむようでした。

遠い海から届いたクジラどうしの

語り合いは、お腹にずんとひびきます。

温かい水と冷たい水のさかいめでは、

潮どうし交わす言葉が

耳にぴちぴちと聞こえました。


水の玉はシーラ。海のようせいです。

言葉からは若い男の子のようですが、

水とほとんど同じなので、

表情がはっきりとわからないし、

本人も考えたことがないそうです。


海のようせいの仕事はみなおなじで、

海に生きるものたちにも、

そうでないものたちにも、

「大丈夫」と伝えることと言います。

わたしにはよくわからなくて

だまっていると、やさしく「大丈夫」と

返ってきました。

すると、なぜだか急に

胸がキュッと苦しくなり、

鼻のおくがツンとしました。


大丈夫...大丈夫...大丈夫...

海もわたしをそっとつつんでゆらしました。

お母さんの胸にねむるって

こんな感じかしら。

ふんわりとおだやかで

平和な気持ちが広がっていきました。

色とりどりの魚たちでにぎわう

サンゴ礁にも連れて行ってくれました。

小さな魚たちは子どもを育てたり、

大きな魚の掃除をしたり、

いそがしそうに働いていました。


切り立ったがけの先を

サメの群れが泳いでいきました。

がけの下は深く底は見えません。

大きなウミガメがゆっくりとしずんでゆき、

やがて暗い青の中に見えなくなりました。

ゆっくりと泳いだり、話したり、

夜まで海の中にいました。

岩の間でねむる魚もいました。

食事に忙しいイルカたちもいました。


おなかが満たされた子どものイルカが

そばによってきました。

シーラが勢いよく水をけり深くもぐると、

子イルカもついてきて、

よりそって泳ぎました。

わたしのすぐ横に

子イルカの白いおなかがあります。

そっとさわると、すべすべして

思いがけなく温かく、おどろきました。

「シーラのともだち?」と

子イルカは目で笑いながら聞きました。


シーラと海面に浮かび上がると、

ちょうど満月がのぼったところで、

月の光が白く海面に伸びていました。

シーラが手で、ぐるりと

暗い海をまぜると、水が星のように

キラキラと光りました。

「夜光虫だよ」

月の光に照らされて、

シーラの美しい笑顔が見えました。


翌朝は早く出発するようで、

部屋ではもう荷物がつめ直されていました。

わたしはかばんとカギを思い出して、

開いている旅行かばんの

ポケットに入れました。

すばらしい体験ができたことに

とても満足でしたが、

カギはここでも使えませんでした。


出発前、シーラにお礼を言いたくて、

海に向かって「ありがとう」と言いました。

沖で子イルカがはねました。


またいつもの日々にもどりました。

わたしはカギを持ってあちこち回りました。

外はいっそう寒くなり、

雪の降る日もありました。


ある夜、とうとう

それらしい光をみつけました。

やせて背が高い若い男の人が、

自動販売機によりかかって

立っていました。


おへその上あたりが

ぼんやりと赤黒く光って見えました。

がっくりと首を折って、

鼻先まで伸びた前がみの下に

ぶつぶつと何かをつぶやく

白くかわいたくちびるだけが見えました。

こわかったけれど、

カギをしっかりにぎりなおし、

その場所にぐっと押しこみました。


すると、男の人はとつぜん顔を上げました。

大きく見開いた目は血走り、

泡立つつばをはき散らしながら

大声でどなりはじめ、走り出しました。

わたしは男の人の腰のチェーンに

しがみついていました。

道を歩く何人もの人にぶつかって、

男の人は転びました。

わたしは道路に投げ出され、

目の前にその人の顔がありました。

眼球が右に左に動き、

口がパクパクと動き、

みるみる顔が白くなってきました。


わたしは動くことができませんでした。

耳に何かをつめこまれたように

音が聞こえなくなりました。


たくさんの人が集まってきました。

わたしは、人の足にぶつかったり

よろけたりしているうちに

男の人から遠ざかり、

音のない光景を

ぼうぜんとながめていました。


手がズキンと痛み、ふと見ると、

カギをくい込むほどにぎりしめていました。


いけないことをしてしまった!

体がガタガタとふるえ出し、

わたしの体が

空気にとけていく感覚がありました。

消えてしまう!

私はこわくなって、

そこからにげ出しました。

走って、走って…

気がつくとこぶしの木の家でした。


空気にとけてしまわないように、

風が入らないように、

戸をふさぎました。

こわくてこわくて

胸がギュウッと縮みます。

頭が熱くなり、今見た光景を

しぼり出すようにギュッと目をつぶり、

ふるえが止まらない肩を

手で押さえながら、

毛布をかぶって部屋のすみで

小さく丸くなりました。

青空通信

双子の子育てや離婚、自分の成長、 他の方々から頂いた言葉、 出会った言葉を綴っています。

0コメント

  • 1000 / 1000